シュパと、守り鴉のクピは族長の死後、ろくに荷造りもせずにナイフと微量の食糧、そして野宿用の厚手の布を麻の巾着袋に押し込み、里を出た。
魔族の里を覆い囲むのは標高1万2000メートル級の山々だった。
その峠には登るに一ヶ月、下るに一ヶ月掛かり、それを一山、二山と越えていく。
そしてその山々には猛獣も棲み、上層部は活火山となっており、そこかしこに云百度という熱湯が湧き出る間欠泉が存在しているという。
先人たちはその峠を越えるために大きな犠牲を覚悟していかねばならないと伝えている。
シュパとクピも峠越えに際しかなりの覚悟で臨んだ。
ところが、峠を歩き出すこと一ヶ月。
簡単に麓の街に辿り着いてしまった。
猛獣に襲われたり、間欠泉に足止めされたりすることなく、災いもなく、あっけなく…
シュパはこれを五色に輝く石版の効果だと信じていた。
*
里を下りたシュパが見たものは、街の大通りを長い行列が練り歩いている光景であった。
列の先頭には金の箱を肩に背負っている。中盤の列には白い布が被さった御輿が3つ続けてやってくる。後列には、槍を肩に掛けた集団が手足を同じ高さに交互に上げて歩いてくる。
「あれはお姫様の行列だよ」
近くに居た行商の女が教えてくれる。
「しかし、あんたは変わった格好してるね。肩に乗ってるのはなんだい?」
行列が過ぎ去ると同時に、人が散り散りになっていく。行商の女もまた、足元に置いていた荷物を肩に掛け、シュパの人となりを見ながら聞いてくる。
「僕はシュパ。暗夜の…」
シュパが喋っている間を遮って、
『カァァァァァァー』
とクピが一声嘶いた。
シュパと行商の女はその声に驚き、目を丸くした。
「びっくりしたね…鴉かい?あんた鳥使いかなんかかね?躾、もう少ししっかりしなよ。そんなんじゃ、この街どころか世界中どこでも客なんか呼べやしないよ。」
行商の女は怪訝そうな顔を浮かべて、そう言い捨てると散り散りになった人たちの中に消えていった。
「クピ、なんだよ。」
行商の女が見えなくなり、シュパは小声で肩の鳥に向かって呟いた。
すると鳥は更に小声になり、シュパの耳元で呟いた。
『お前、“神様の土地”で本性ひけらかしてどうすんのさ。』
「あ…」
クピの一言で、シュパはハッとした。
『忘れんなよ、俺たちは何百年も昔に神様に追放された悪魔の一族の子孫だ。“暗夜の極地”はこの世界じゃ言わずと知れた悪魔の土地なんだよ。神様の分身たちから見れば、俺らは敵なの。それくらいは頭に入れて、慎重に行動してくれ。』
*
この世界には親から子へ、子から孫へ、代々詠い継がれる一編の詩があった。
この世界は神様が造りました。
神様は、棲める土地を造り、棲める人を造りました。
棲める土地は神の土地、棲める人は神の分身。
みな、神様を讃えて、世界の安寧を願い暮らしていました。
しかし、ある時、悪魔が現れました。
悪魔は、神の土地を奪い、神の分身を殺しました。
神様は嘆き、悲しみ、悪魔に罰を与えました。
悪魔は、神の土地の端っこへ閉じ込められました。
この世界は神様の世界。
この世界に棲む者はみな神の分身であります。
この詩にある“悪魔”こそ、シュパの一族の先祖。
シュパは、悪魔族の血を継いだ最後の若者なのであった。
「僕の正体を知って、神の分身である人たちが一族の血を残そうとしてくれるのかな?」
シュパが自信なさげに呟いた。
『正体を明かさなきゃいい。』
「明かさずになんとかなるの?そういうことって…」
『なる。』
「何を根拠に?」
『なるから、なるのだ。』
「根拠になってないけど…」
『うーるさいな!お前はその石版の反応する神の分身を探し、契りを結んで、子をなし、一族の元へ帰る!それだけを考えていけばいいんだよ!』
「…その石版が反応するのが男だったらどうすんだよ…」
『…そん時は…そん時だ!』
シュパは、肩の黒い相方を一瞥し、懐の巾着に手を掛けた。
*
神様は世界を造りました。
神様は己が身を呈し、分身を造りました。
神様の分身こそ、今此処に生きる全ての生命なり。
悪魔がいました。
悪魔は神様に逆らい、神様の造ったあらゆるものを壊し、消していきました。
悪魔は心痛な面持ちであった神様の慈悲を受け、世界の端っこに封印されました。
悪魔は二度と、神様の前には現れませんでした。
「おかしいと思うわけ。」
教会のお祈りが終わり、少女は神書を机に叩き付けて、神の彫刻に向かっている神父に悪態をついた。
「神様神様って、神様が人を造ったっていうなら、どうしてお母さんは私を生んで死んじゃったの?お母さんが私を造ってくれたから、私が此処に存在しているわけでしょ?神様なんかいないのよ!居たら、私は神様から生まれて、お母さんは死ななかった。そうでしょ?」
「リリア。その話は何度もしました。」
神の彫刻に祈っていた神父は顔を上げ、冷静な面持ちで少女に向き合った。
「聞いた。耳にタコができるくらいね。」
少女は顔を背け、吐き捨てた。
「ヒステリックになるのはお止めなさい。あなたは幼い頃からこの教会で育ち、神様の御傍に仕えてきました。そのあなたの口からそのような言葉が出てくるのがとても悲しいです。」
神父はそういうと、机にたたきつけられた少女の神書を手に取り、彼女の前に突きつけた。
「神様への冒涜は、罪となります。あなたがまだ子どもで、教会の信者だから多少の暴言も目を瞑ることができます。しかし…」
神父は苦い顔をして言葉を濁し、目を伏せた。
少女は鋭い視線を神父に向けた。
「ドクターを審判所に突き出したのは神父様だったのね?」
「リリア、彼は危険な思想の持ち主だった。もしかしたら悪魔一族の子孫の可能性だって考えられた…あなただって、彼によからぬことを吹き込まれてからだ。そうやって神様への冒涜を口にするようになったのは…」
神父は目を伏せ、奥歯を噛み締めて呟いた。
「だっておかしいじゃない。ドクターが悪魔だったら、悪魔だって神様が造った生き物じゃない?そうよ、悪魔族だって神様が造った私達の仲間じゃない!」
「リリア!!」
神父が大声を上げ、少女は背中から震え上がった。
神父はパンパンと手を叩くと、脇の扉から修道士達が2〜3人現れ、少女の両脇を抱えた。
「きゃあ、離して!何?」
「リリア、君には少しきついお灸を据えないといけないみたいだよ。」
「連れて行け。」と神父は修道士達に命じた。
修道士達は騒ぐ少女を抱えて、教会の神殿を後にした。
**
“暗夜の極地”
神様が罪を犯した悪魔の一族を封印した土地。
大きな大陸の北東の果てに位置するその土地は、険しい山々に囲まれ、すり鉢状の盆地で、冬寒く、夏は暑い。
心地よい季節を持たないその土地では作物はなかなか実ることなく、豪雪、豪雨、豪風に見舞われることが多いため、丹精に作物を育てても、気象状況によって作ったものが一切無に帰すことも多い。
そんな悪魔の一族が、ギリギリ子孫を残すことができたのは、険しい山々に生息する、獣たちのお陰といっても過言ではない。
猪、狐、兎…
彼等は、一族の食材であり、皮や毛は一族の家から衣服まで、幅広く使うことができる。
言ってしまえば、シュパの生活は野生の生活そのものであった。
それが普通で、その方法しか知らない。
「はい、5銭ね。」
カゴに山盛りにあったリンゴを手にしたシュパに向かって、カゴの横で腰掛けていた老婆が皺皺で太い手をシュパの前に突き出し言った。
「ご…せん?」
シュパは思わずリンゴをカゴに戻した。
「なんだい、買わないのかい?」
戸惑うシュパに、肩に停まっている黒い鳥のクピは、シュパの耳元で呟いた。
『“せん《銭》”とは通貨の単位だ。』
「…つう…か…?」
「買わないじゃあっち行っとくれ。商売の邪魔だよ。」
老婆は、シュパの前に突き出した手を翻して、前後に振り、追い払う仕種をした。
しかたなく、シュパはその場から離れた。
『神様の分身ってのは、“通貨”というものを基準にして物と物をやり取りしてるんだ。』
クピはシュパの肩を離れ、レンガの建物が続く路地の合間に入り込んでいった。シュパはそれについていく。
少し奥まで入り込んで、クピは止まれと言わんばかりにシュパの肩に戻った。
シュパはその場に止まり、しゃがみこんだ。
『集落で例えるぞ』
クピの話に、シュパは相槌を打った。
『世話好きのエルガおばさんが、近所のトキ婆さんの家が崩れそうだからシュパに藁を刈ってきて欲しいとお願いする。』
「うん。」
『世話好きエルガおばさんは、シュパにお願いするために手作りのパンを渡す。』
「うん。」
『パンの代償として、シュパは藁を刈りに行く。そして藁はエルガおばさんの手に渡り、トキ婆さんの元へ届く。トキ婆さんはエルガおばさんに代償として、猪の肉を渡す。』
「トキ婆さんはケチだからそんなことしないと思うよ。」
『例えばの話。』
「はぁ…」
『この流れを“通貨”に置き換えて考える。これが“通貨の原理”だよ。』
「…つまり、通貨は猪の肉ってこと?」
『食べられないけどね。』
「…いったいどういうもの?」
『だからさぁ…』
「おい、其処で何をしている?」
路地の入り口から強面の男性がシュパを睨んでいる。
「あ、僕は…」
「出てきなさい。」
シュパは、おずおずと路地から出てきた。
「誰と喋っていた。」
「…え?」
強面の男はシュパの目の前に顔を近づけて質問してくる。
シュパの目線が泳ぐ。
ふと、クピと眼が合う。
「…鴉…?」
そんなシュパに対して、男は訝しげにシュパとクピを双方睨み付ける。
「…鴉が喋るのか?」
半信半疑で首をかしげつつシュパに問う。
「え…あ…はい…」
思わずシュパは口が開いてしまった。
呆然とした表情で、クピがシュパを見た。
シュパの目は相変わらず泳いでいる。
「見せてみろ。」
「へ?」
シュパの泳いだ目線が男性の方へ向く。
「鳥使いなんだろ?芸を見せてみろ。」
男の強面の顔が少し緩んでいた。
「あ…や…」
シュパはクピを見た。
呆れたような顔をしている。
「えっと…こちらにおわしますは…」
『く…クワァァァァ』
クピはシュパの肩を離れ、くるんと宙を回り、バサバサと飛び去ってしまった。
「あ…え…えぇぇ?…待って…待ってよ…」
シュパは焦っておどおどとしている。
「あははは、なんだ半人前か。師匠にでも叱られて自主練でもしていた様子だな。いいぞ、追いかけろ。商売できるようになったらまた見せてくれ。」
強面の男はシュパの情けない風貌に大笑いしてその場を立ち去ろうとした。
しかし、ふと何かを思ったようで足を止め、シュパの方を向いた。
「半人前の鳥使いさんよぉ、実はつい先日危険な思想家が脱獄したそうでな、この近辺に潜伏してると情報があったので、不審な人物を見かけたら近くの審判所へ通告してくれ。」
男はそれだけ言い残し、シュパに背を向けた。
『危険な思想家?』
クピが何食わぬ顔でシュパの肩に帰ってきた。
「しそうかって何?」
『雑学に長けた…ビンチさんみたいな人のことだよ。』
「あぁ〜、おしゃべりビンチさんか…」
かなりの老齢だったが、神様と神様の分身について、よく教えてくれた。話が長いし、同じことしか言わないから、シュパはいつも半分聴いて半分寝ていた。
『っていうかシュパ、さっきはよくも友である俺を売ったな!』
クピはそういうと、シュパの耳を黒く尖った嘴で突いた。
「痛い…痛いって…」
*
教会の裏手にある納屋の戸が、風もないのにガシガシと音を立てて揺れている。
よく聴くと女の子の声がする。
「出して!神父様!此処から出してよ!!」
戸のガシガシ言う音は教会の庭に響き渡っていたが、修道士達は誰も気にしている様子はない。
それぞれがそれぞれの仕事をしている。
「誰か!開けてってば!」
「もうっ」と言って少女はバンと一回大きく戸を叩いてしゃがみこんだ。
少女が目を閉じると、教会で長いすに座ったままじっと神様の彫刻を見つめていた初老の紳士が脳内に浮かんでくる。
初老の男は、グレーのツバ付き帽子を深々と被っており、帽子と同色のスーツと臙脂のネクタイは、光の加減で、やけに色あせて見えた。
少女は聖堂の掃除をしていて、どこかの貧しい老人が、慈悲を求めて来たのかと思っていた。
少女が男の横に来たとき、ゴマしお色の口を覆う髭がゆっくり動いた。
何かを呟いていた。少女はその言葉に耳を傾けた。
思えば、その言葉が少女の心を大きく動かし、価値観も180度転換した。
本当に小声で、お腹に響く低い声だった。
『神様など、まやかしだ。』
男は少女を見た。少女は帽子の縁から覗く男の視線にドキッとして、目を逸らした。
『我々は母の腹から生まれてくるのに、どうして神の分身なのだと思う?』
少女はハッとして男を見る。
初老の男はゆっくり立ち上がり、
『興味があるなら一緒に来なさい。』
といって、聖堂の入り口に向かって歩き始めた。
少女には聖堂の窓から差し込む光が初老の男に後光を当てているように見えた。
この男は神なのではないか…と本気で思ってしまうほど…
少女はその場に箒と雑巾を投げ出して、男の後を追った。
「わたしは、長年神について研究している。」
男は街の外れにある長屋の一角に住んでいた。
本当に貧しい身の上であった。
「20年前に妻を亡くしてから、神様というものの真意について疑問を持ち始めた。」
少女は、名も教えてくれない初老の男を“ドクター”と呼んだ。
「神様は永遠のもので、わたしたちの身の回りのもの、この地、命、水から火から作物から何から何まで神が作ったという。」
少女はドクターの囁く声に耳を傾けるために、近づき側に椅子を置いて彼の目を見ながら話を聴いた。
「しかし、天候が荒れれば作物は実らなくなるし、命にも限りがある。」
ドクターは少女を一瞥してまた目を伏せた。
「神様とは不思議だな。悪魔という敵が出てきたら、権力を行使して世界の端っこへ追いやる力を持ちえているのに、命に限りを造り、飢えや差別が消えることはない。思えば、悪魔という括りを造って差別の対象を設けたのだって不思議なものだ。神様を万能とするならば、根から排除すればいいのにそれをしない。何故だと思う?悪魔が神様の行使の下に屈しない全くの異形のものであったにしても、それを排斥できない神とは全く無能に等しいとは思わないか?それに、命を生み出し、限りを作る。限りを設けるのであれば必要以上の命など生み出す必要はないだろう?それでもまだ人は神が居ると信じられるのだろうか?」
一息にそれを喋りきったドクターは、さっきの言葉を吐いた人とは思えないくらいすぅーっと無口な老人に戻り、そのまま、目を閉じて吐息だけを漏らしながら動かなくなってしまった。
少女は、呆然としてそれをしばらく眺めていた。
教会に戻ったのは夕日が沈んでからだった。
その日は、神父にひどく叱られた。
けれど、少女は自室の窓から半分光る月を見ながら、初老の男の話したことが忘れられずにいた。
少女が教会に引き取られた理由は、両親が居ないことだった。
少女の母親は身体が弱く、少女を出産してからしばらくして息を引き取った。
貧しい家柄だった両親は、母の死後、父一人だけでは、とても乳児を育てる余裕はなく、しかたなく教会の孤児院に少女を託し、父はそのまま蒸発してしまった。
教会の孤児院の子供たちはみな同じ境遇の子どもばかりで、少女も違和感なく育った。
教会の神父は、表向きは“人はみな平等に神様の分身である”と説き、礼拝には貧富の差なく受け入れたが、人の本性はさりげないところで見えるもので、例えば、病気になった貧しい人がいたとして、その人が、お払いをお願いしたいと神父の下へ訪れたとする。
この神父はとりあえずお払いを引き受けるが、その後、貧しいと分かっていながらも払いきれないような莫大なお布施を要求する。
財産を根こそぎ盗られたうえに、払えないとなると、“神への冒涜”と称して審判所へ突き出す。
それでも、評判が落ちないのは、神様という存在が、人の心の大きな支えになっていることと、神父という立場が“神様の使者”という位置づけにあることが大きい理由だろう。
少女は以前から神父のやり方が汚いと思うが、そういう大人しか見ていないと、それが当たり前に見えてきてしまう。
子どもとはそんなものなのだろう。
ドクターはそんな少女の大人への価値観を一気に変えた。
対人の関係が教会内でしかなかった少女にとってはドクターが最初の外で出来た知り合いということになる。
少女は、懲りずに何度もドクターを尋ねた。
ドクターは、少女が訪ねるたびに同じことしか話さない。
けど、少女はそれでよかった。
その話が無性に聞きたいのだ。
そのドクターが…
薄暗い納屋の中で少女は唇を強く噛み締めた。
なんとしてでも此処を抜け出さなければ…
ふと、懐が暖かくなった気がして、少女は胸元を見やる。
「お守り…」
両親と自分を繋ぐ、唯一のお守り。
薄汚れたピンクの巾着。
中に何が入っているのかは見たことがない。
なんとなく、中を見ないことで自分を守ってくれる気がしていたから。
「お母さん…お父さん…」
少女は、この暖かさに何かあるような気がして、首にかけていた巾着を外し、中をゆっくり開いた。
ピンクの巾着からは、何色なのか分からない、色んな色が重なり合って輝く石版が出てきた。
「…奇麗…」
少女は石版を手に取り、小さい通気窓から差し込む日の光にその石版を翳した。
「…私…このままじゃいけない…」
少女は、巾着の中に石版を仕舞うと更に大きな声で納屋の中から叫んだ。
「出して!ここから出して!!」
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