「メトロノームのカチカチって音って、人の鼓動みたい。」
楽器屋さんの前を通りかかった時、ショーウィンドウの中にある三角形のメトロノームを見つけた。
と同時に、頭のどこかで、そんな台詞が流れてきた。
その声に惹かれるように、僕は、楽器屋さんの入り口をくぐっていた。
「いらっしゃいませー」
バイトの女の子がカウンターで笑顔を振りまく。
僕は、ニット帽を目深に被り直し、店内の奥に入った。
奥のショーケースには、ウィンドウで見た三角のメトロノームが色とりどりに並んでいる。
僕は、鍵のかかっていないショーケースを開けて、おもむろに振り子を左右に揺らした。
『カチッ、カチッ、カチ…』
振り子は大きな弧を描きながら低い音でカウントを打つ。
『カチカチカチカチカチ』
突然、そのメトロノームがテンポ2倍の速さで打ち始めた。
でも、振り子はゆっくりと一定に動いている。
思わず僕は、振り返った。
そこには、胸の奥に響くメトロノームを机に肘を突いて眺める女の子が居た。
「…楽しい?」
僕は、怪訝な声で尋ねた。
女の子は顔を上げて、驚いた風に大きな瞳をこちらに向けてきた。しかし、
「…ううん。でも、この音、あたし好きなんだよね。見かけると動かしたくなるの。」
と、女の子は穏やかに微笑んで、また、視線を一定間隔で刻まれる振り子に移した。
「買ってもらわないの?今日はお母さんと来てるんじゃなくて?」
「ひとりだよ。それにお母さん、忙しくて、家に居ないもん。」
女の子は、再び机に伏して、じっと揺れるメトロノームをねめつけた。
「…そう、すまない。悪いこと聞いちゃったね。」
と言い、僕は、ショーケース内のメトロノームの振り子を止め、ガラス戸を閉めた。
「おじさんは、メトロノーム買いに来たの?」
ショーケースから踵を返して、店を出ようとする僕に向けて、女の子が尋ねてきた。
僕は、足を止め、女の子のほうを向き、
「…いや。」
と小さく答えた。
楽器屋さんに入ったのは、ただ、入り口のウィンドウに飾られたメトロノームに惹かれただけだったからだ。
深い理由なんてない。
ショーケースを開けてメトロノームの振り子を動かしたのだって、何も考えてなんていなかった。
しかし、女の子の質問に、僕は答えを詰まらせてしまった。
「お母さんはね、メトロノームの音が好きなんだよ。」
なかなか答えない僕の答えなど待たずして、女の子は振り子を揺らす三角形を愛おしそうに眺めながら言った。
「独りが寂しかったら、メトロノーム聞いていなさい。ね?この音は、ヒトノコドウみたいでしょ?ハナのお胸の音と同じ。お母さんのお胸の音も同じ。だから、ハナは独りじゃないのよ。って言うの。だからあたしは寂しくないように聴いているの。」
女の子は、母親の言いつけを守っていますと謂わんばかりに、真剣にメトロノームを聞いている。
「…そうか。」
僕は視線を落とし、頭の中でリフレインしている昔の“誰かの台詞”をもう一度思い出していた。
「メトロノームのカチカチって音って、人の鼓動みたいだよね。」
「ったく、萩原って変わってるな。おい、早く出ろよ。音楽室閉められないぞ。」
僕が、そう言うと、同級生の萩原萌はジトンとした眼差しをこちらに向けた。
「じゃあ、永嶋君、鍵置いて先帰ればいいじゃない。鍵なら閉めていくよ。みんなもう帰ったんじゃないのー?」
萩原萌は指でメトロノームの振り子についている錘を上下に弄り始めた。
「…班長が先に帰るわけにはいかないだろ。」
「ふーーーーん。別に先帰ったって私は先生にチクらないし、ばれたって内申書なんて変わらないよ。」
「そう…そういう…訳じゃない。」
そういう訳だった。内申書が悪かったら、どんなに成績良くたっていい高校にはいけない。内申書の心配が無かったら、班長だとか学級委員長だとかなんてやってられない。
けれど、僕のそんな魂胆なんか萩原萌にはお見通しだった。
「じゃあ、どういう訳よ。」
にやつく14歳の少女は、散々弄り回したメトロノームを元の棚に戻して、鞄を手にするとじりじりとこちらに近づいてきた。
自分の頬が照っていくのがよくわかった。
「帰る。」
「やっぱ、内申書じゃない。」
萩原萌は、バシッと僕の肩を軽い鞄で打った。
「だから、違う!!」
「あー、そんなものにしかこだわりが持てないなんて寂しい人間ね。」
「悪かったな。」
「あーあー!うじうじしてて、いやっ!だから永嶋君て、蛆虫とか言われてるんだよ。」
そんなこと言われていたんだ…僕は大分ショックを受けた。
「寂しかったら、メトロノームを聞きなさい!!」
「は?」
「だからね、メトロノームの音って、人間の心臓の音に同じっぽくない?」
「…うん…?」
「メトロノームが側にあったら、一人でも、心臓の音は2つ。つまり、もう一人誰かいるみたいじゃない?」
むちゃくちゃな論理に、僕は頭を軽く抑えた。
「あ、馬鹿にした。」
萩原萌は軽く頬を膨らませて、バシバシと何度も鞄を僕にぶつけてきた。
「どーせ、学年トップの蛆虫なんかにバカな私の言うことなんて分からないでしょうにねー。」
僕は歩幅を広くし、足の速度を速めた。萩原萌は徐々に引き離されていった。
その後すぐ、班替えがあり、萩原萌とは残りの学校生活で一度もそういった接点を持つことはなかった。
「メトロノームのカチカチって音って、人の鼓動みたい。」
どうして今、それを思い出したのだろう。
「おじちゃん、大丈夫?」
女の子が、心配そうにこちらを見てくる。
「…ああ。」
僕は、女の子の頭を軽く撫で、「大丈夫だ」と呟いた。
それから、再びショーケースに戻り、ガラス戸から赤茶色い木製のメトロノームを取り出すと、レジに運んだ。
「はい、¥4500です。」
レジカウンターのバイトは、入ってきたときと同じようなハキハキした声と笑顔を、僕に向けてきた。
財布から¥5000取り出し、おつりを受け取った。
「プレゼントですね。ありがとうございましたー!!」
いつも、ハキハキとした声で喋り、笑顔を溢すのか?
僕は、彼女から渡された袋を受け取りながら漠然と考えていた。
「…これ。」
僕は、袋をそのまま、展示されてるキーボードで遊んでいる少女に渡した。
「なぁに?」
「…寂しくないように…」
僕は小さな声で呟くと、包みを受け取ったまま、呆然としている女の子に背を向けて楽器屋さんを出た。
再び、ニット帽を目深に被りなおした。
楽器屋さんを出て、どこへ行こうかと周囲を探っていると、店の入り口が開いて女の子が飛び出してきた。
「…何?」
女の子は、包みを抱えて、照れくさそうにモジモジしている。
しばらく沈黙が続き、ゆっくり女の子が口を開いた。
「あの…おじさん…えっと…ありがとう。」
というと、真っ赤な口から白い歯を見せてニッと笑うと、女の子は店に戻った。
僕は、そんな彼女の小さな背中を目で追いながら、小さく祈った。
あの小さな女の子が、寂しくならないように…
そして、独りに慣れることがないように…
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