二喬千里行
長江に巨大船団が泊まっている。
この大船団を指揮しているのは、呉の若き軍師、周瑜公瑾である。
周瑜は長い髪の毛を、東南の風に遊ばせて、この大河を甲板より眺めている。
そのりりしい姿は、ただ立っているだけでも多くの女性を魅了している。
今も、物陰で彼を見ていた数名の追っかけが草木の向こうで失神している。
しかし、本日、彼の機嫌はあまりよろしくない。
それもそのはずである。
朝方、周瑜は奥方である、小喬と大喧嘩をしてしまったのだ。
理由は些細なことだった。
小喬が、
「周瑜さま、今、あの女中のお尻、追っかけていたでしょ?」
と言いがかりをつけてきた。
もちろん周瑜は、
「何を言ってるんだ、小喬。私はお前のお尻以外に興味はない。」
と全力で否定した。
しかし、その全力がまずかったらしく、
「周瑜さまのうーそーつーきー!!あたし、知ってるんだからね!この前、女護衛武将の英彩ちゃんのお尻に向かって、『尻が良い!!』とかいって迫ってたでしょ!!」
と、喚きたてた。
「な、な、な、な、何を言ってるんだ!!大体、英彩とは誰だ!?」
「ムッキィィィ!!知らん振りするなんて、周瑜さま、最っっ低!!もう、周瑜さまなんて知らない!!」
小喬は、頬を思いきり膨らませて、朝餉の席を後にした。
その後、何度か小喬の自室に行き、弁解を求めたが、ついぞ小喬は聞く耳すら持たなかった。
そのまま、出勤してきたわけだが、周瑜は肝心の仕事が、全く手につかない。
「よぉう、周瑜。」
「あぁ、孫策、どうした?」
ボーっとしている周瑜の前に、呉郡の屋敷で兵の指南をしているはずの君主が、突然現れた。
「あ〜、こっちに大喬は来てねぇか?」
孫策は、照れるように目を泳がせながら、髪をぼりぼりかきむしりながら言った。
「なんだ、孫策。大喬と喧嘩したのか?」
朝、喧嘩したばかりの周瑜は仲間意識を覚えた。
「いや。」
孫策の否定発言に周瑜は思わずガクリと肩を落とした。孫策は気にせず続ける。
「なんか、朝、小喬と一緒に居るのは見かけたんだが、その後、全く見かけないからこっちにきてんじゃねぇかと…」
周瑜は、左頬をヒクヒクさせて、
「はは…知らないなぁ、見かけてない。」
と答え、
「孫策、私は忙しいんだ。用が済んだら帰ってくれ。」
といい、再び大河を見やった。
孫策は、周瑜の機嫌があまり良くないことを悟り、「ああ」と不服そうに頷くと、甲板から降りた。
「おぉ、ここにいらしたか孫策様。」
と、同時に、父・孫堅の頃から献身的に孫家に仕えている古参の将・程普が、諸手を挙げて孫策を呼んだ。
「よぉう、程普、どうした?」
周瑜も、持ち場の違う将の登場に思い切り反応した。
「はい、孫策様宛の文を届けに参りました。」
程普は、孫策に白い包み紙を渡した。
「待て、それは誰からのものだ?」
周瑜は、甲板を降り、孫策から手紙を取り上げ、程普をにらみつけた。
「へぇ、誰とまでは分かりませんが、護衛兵の者から預かりました。」
味方からの文と分かり、周瑜は孫策宛という文を広げた。
「!!」
周瑜の顔色が変わった。
孫策はそれを見逃さなかった。周瑜の隙をついて、文を奪い取った。
「えぇ〜、何々?無責任な男たちに愛想が尽きました。出て行きます。追いかけないで下さい。大喬&小喬・・・・・・・・・・・・・・はい?」
孫策は、文を広げたまま、周瑜を見やった。
「おい…これは?」
「…離縁状…ですかな?」
程普は基本的にぶっきらぼうな性格である。
「はぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
周瑜は、美顔にも構わず、ものすごい顔でおたけびをあげた。
「孫策!!馬を出せ!!」
「は?俺?」
いくら義兄弟とはいえ、壊れた周瑜は無礼千万の何者でもなかった。
「このまま逃がすわけにはいかない!!」
「お…おい、周瑜!!」
孫策は訳も分からず、周瑜の後を追った。
「ねぇ…小喬、本当にいいの?」
関所を3つ目に差し掛かった。大喬は馬に跨りながら、不安そうに妹に問いかける。
「いーの!!周瑜さまなんか、お尻の形さえよければどんな女だっていいんだから!!」
小喬は朝の出来事を未だに根に持っていた。巻き込まれた大喬はいい迷惑であった。
「でも、周瑜さまはそんな方じゃないと思うわ。ちゃんと話せば…」
「話したって、言い訳ばっかり並べるんだもん。」
大喬は深くため息をついた。
「お姉ちゃんはあたしが何の策も無く、出てきたとでも思ってるの?」
しばらくして、小喬は不適な笑みを浮かべて、大喬を見た。
「?」
「周瑜さまに、あたしの大きさを理解させてやるのよ。」
目の前は3つ目の関所だ。その向こうには、青い旗が翻っていた。
「え…?」
周瑜と孫策は馬を走らせた。
この呉郡から出て行くならば、5つの関所が控えている道を通らなければならない。
この関所を抜けられたら、もう手遅れだ。
周瑜の目は血走っていて、馬に跨って駆け抜けていく様は、鬼の面をつけた戦車だ。
「おい、周瑜!!」
孫策は、周瑜を追うので手一杯だ。
第一の関所が見えた。
「関所の前に誰か居るぞ。」
孫策は、周瑜に止まるように言った。しかし、牛のごとく、周瑜は突っ込んでいく。
「とまってくだされ。」
「どけ!!」
閉じられた関所の前には、程普同様、孫堅時代から孫家に仕える古参の将・黄蓋が仁王立ちで立っていた。
「そこをどけというのが分からないのか!!」
周瑜は、黄蓋を馬で蹴り跳ばした。
「…うわぁ…」
古参の将だろうがなんだろうが、邪魔するものは容赦しない。周瑜公瑾は恐ろしい男である。孫策は改めて思っていた。
第一の関所は難無く突破した。
馬は次の関所へと突進しだした。
中華最速と謳われる伝説の赤兎馬もびっくりの速さを出している気がする。
第二の関所にもやはり武将が立ちはだかっていた。
「どくんだ、周泰!!」
「…ゆかぬ…」
今度の周泰は騎乗している。周泰は剣の腕も孫家1,2を争うほどの実力だ。下手に手を出したら返り討ちに遭うだろう。
「おいおい、周泰こんなところで何してるんだ?」
ようやく追いついた孫策が、周泰に話しかける。
「権が探していたぞ?あいつぁ本当に周泰がいないと何もできない奴だからなぁ…」
「!!」
周泰は、「御意」と頭を下げると、2人の前からあっさり立ち去った。
「本当の話か?」
「へへ、嘘だ。」
だが、弟・孫権が身辺の世話を周泰に頼りきっているのは事実だ。
ここでもあっさり突破してしまった。
馬は、どんどん先を急ぐ。
ようやく第三の関所だ。
「!!」
周瑜は関所付近で異常な気配を感じた。
ここからは一筋縄では行きそうに無さそうだ。
2人はゆっくり関所に近づいた。
「えりゃぁぁぁ!!」
「「!!」」
空から何かが降ってきた。
「きさまは!!」
2人の前に隻眼の男が現れた。
「…孟徳の覇道を阻むものは斬る!!」
「お前は、曹操の腰巾着の夏侯惇とかいう奴じゃねぇか。」
「腰巾着謂うな!!…ふん、孫家のお若い君主様と軍師様は、よほどあの幼い娘らが愛おしいと見受けられる。」
夏侯惇は、大刀を肩に掛け、周瑜と孫策を見て鼻で笑った。
「黙れ、腰巾着!!何故、孫家の領地に曹操軍のきさまがいる!!」
周瑜は、刀を抜き取り、切っ先を向けて問いかけた。
「何故だと?孫家に愛想をつかせた二喬とやらが、孟徳の元に来たいと言うから迎えに来たまでよ。」
「「ななななななにぃぃぃぃ!?」」
夏侯惇の言葉に、2人は自分の耳を疑った。
大喬と小喬が自ら、曹操の元に行くと、この隻眼は言ったのだ。
そんなことがあるものか。
あんな変態ちょび髭のどこがいいのだ?
元より、あの変態に比べて自分たちのどこが劣っているというのだ?
2人の脳みそは硬直状態であった。
「ふん、女なんかにかぶれるからこういうことになるんだ。死ねぇぇ!!」
夏侯惇は2人の隙をついて、大刀を振り下ろした。
「んな訳があるはずねぇずぇ!!」
刀大振りの夏侯惇の懐に、孫策のトンファーが流れ込む。
「ぐはぁ…」
鳩尾、ジャストヒット!!
夏侯惇はその場にうずくまったまま動かなくなってしまった。
「周瑜、俺たちは二喬の旦那だ。俺たちがあいつらを信じなくてどうするんだ!!」
孫策は、放心状態の周瑜の胸倉を掴んで、叫んだ。
「…孫策…」
「よぉし、いくずぇ、周瑜!!変態曹操から二喬を取り戻す!!」
「あぁ!孫策!」
周瑜は立ち上がり、馬に再び跨ると、孫策と並んで、第三の関所を突破した。
「ねぇ、ちょっと、話が違うじゃないよぉう!!」
そのころ、二喬は、曹操軍の馬車の中で、両手を縛られて閉じ込められていた。
「ふふ、お前たちは、わしの自慢の銅雀台に飾るのだ。」
馬車の窓から馬を横付けした曹操が顔を覗かせ言った。
「うわぁ、キモッ!!」
小喬は思い切り叫んだ。
「小喬、そういうことは思っていても口にしてはいけないわよ。」
大喬が一番ひどい。
曹操は小さく舌打ちをし、馬車の窓を閉めた。
「おねぇ~ちゃ~ん!!」
小喬は大喬に泣きついた。
「大丈夫よ、小喬。きっと孫策様と周瑜様が助けに来てくださるわ。」
その時、『ヒヒ〜ン』という馬の嘶きが響き渡り、馬車が大きく揺れた。
第四の関所に差し掛かったところで2人は青い旗を翻している一行を見た。
最後尾に、意味深な馬車が付けている。
「曹操だ!!行くぞ、孫策!!」
「おうよ!!」
2人は、馬を加速させ、青い旗の一行に近づいた。
「殿!!後ろから馬が二頭、近づいてきます!!」
伝令の声に、曹操は、口端を上げ、「来たか…」と呟くと、
「許楮、一軍を連れて、奴らを迎え撃て!!」
と命令した。
巨漢な男が、馬車の影から現れ、孫策と周瑜の前に立ちはだかった。
「ちっ、なんだってんだ!!」
「そそさまの邪魔をするやつは、おいらが叩き潰してやる〜。」
「殿〜!」
背後や脇の山道から、太史慈と周泰の軍が現れた。
「お前ら…」
「奥方様方の護衛兵が教えてくださいました。さぁ、ここは我々が引き受けますゆえ、奥方様を…」
太史慈と周泰は、孫策たちの脇に来て、それを伝えた。
「すまねぇ、太史慈、周泰。いくずぇ、周瑜!!」
「ああ。」
2人は、一軍から離れて、曹操の居る一行のところに向けて駆け出した。
「ふん、2人だけで突っ込んでくるとは…」
「待て!!曹操!!我妻たちを返してもらおう。」
周瑜は、曹操の前に立ちはだかり、剣を抜き、切っ先を曹操に向けた。
「何をいっておる。二喬は、きさまらのような青二才から逃げるために、我が軍に援助を頼んだまで。返すも何も、二喬の意思ではないか?」
曹操は鼻で笑っている。
「観念しろ、曹操。まぁ、今のうちに貴様の首をはねておくのもこの先の暗雲を消し去る良いチャンスだがな。」
「はっは〜、若いとは良いものだな。怖いものを知らない。」
曹操は、大声で笑って言った。
「怖いものを知らないのはお前だずぇ、曹操!!」
「何?」
曹操は、あわてて背後を見た。
馬車の脇に、孫策がトンファーを構えて立っていた。その後ろには、二喬が、鉄扇を構えていた。
「くっ…」
曹操は一気に不利を察し、全軍に撤退を命じ、サクサクと自国へ帰ってしまった。
周瑜は、孫策の裏でふてくされた様子の小喬に近づいた。
「小喬…」
大喬がやさしく小喬の背中を押した。
前に出た小喬を、周瑜はきつく抱きしめた。
「すまない、小喬…君を不安にさせてしまって…」
「周瑜さま…」
「そうだ、朝、きちんと説明していればこんなことには…」
「…え?」
小喬は思い切り周瑜を突き飛ばした。
「やーっぱり、あの女中のお尻、見てたんだ!!」
「違う、小喬!!お尻を見てたんじゃない!!あの時、彼女の腰にカマキリがついていたのだ。それを言おうかどうか考えて…」
「いいわけぇぇぇ!!」
小喬は再び、千里の道を走り出した。
「も〜う、本っっ当に周瑜さまなんか知らない!!」
「待ってくれ、小喬!!本当なんだ!!本当にカマキリが…」
周瑜は、躓きながら小喬を追っていった。
「…どうしましょう…」
「まぁ…そのうち帰ってくるんじゃねぇか?」
呉郡の地に夕日が沈む。
その山間の山道で、少女の怒声と男の情けない悲鳴がしばらく響き渡っていたことは、呉の地に住む人々しか知らない。
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